旋回と跳躍と

フィギュアスケートに関してあれこれ思い巡らせたことの記録です。過去に出したものもまとめているため、時系列は歪んでいます。

ついに単行本刊行③

感想のようなもの、続き。対象の書籍はこちら
第Ⅲ部は、町田さんによる詳しすぎるプログラム解説というだけで期待しちゃうのですが。
もちろん軽い論調ではなく、ずっしりみっちり重いこと重いこと。第Ⅰ部でaestheticとartisticの違いや、ルールと表現の関係などについて考えた上で第Ⅱ部の著作物性の話が展開されていて、それが分析の前提となって第Ⅲ部のプログラム評釈につながります。ああ、順を追って長々読んできてよかった…

以前、町田さんがフィギュアスケートの採点構造を「技術点」「芸術点」と説明したことが気になっていました(※)。そのときは本題から外れるので詳しい説明がなく、フィギュアスケートの採点といえばTESとPCSなので、どうも腑に落ちなかったのです。どういう意図なのか、AS全体もしくは一般聴衆に通じる言葉として広義で用いたのか。それがこの第Ⅲ部まで読んできて、合点がいきました。

フィギュアスケートのTESは技術点になります。これはさほど異論はないでしょう。そして技の出来栄えはGOEとしてTESに加算されます。「流れがある」「明確である」「独創的である」「音楽に合っている」など、エレメンツごとの判定基準があり、基準を満たした項目が増えればGOEは上がります。
そして、TESは芸術的評価ではありません。そこで認められる美しさは、artisticではなくaestheticとしてです。この判断は、第Ⅰ部から読んでくると導かれます。図1(p.123)もそのシンプルな分類です。独創性や音楽性というと芸術的評価をしているようですが、TESにおいては判定基準の要素であり、技の難度や質の評価なのです。

なんだか逆説的になってきますが、自分の理解のために続けます。
注意しておきたいのは、TESの対象項目であるジャンプやスピンといったエレメンツには、難度や質という技術点評価しかないわけではなく、芸術表現としての価値もあるということ。第Ⅱ部の図2(p.85)に示されていますが、芸術点の対象範囲にTESの各エレメンツも入っています。

ですが技術点がエレメンツ単体について数値評価されるのに対し、芸術点については個別に点数が設定されて評価されるわけではありません。音楽によくあったジャンプを跳んだとしても、芸術表現としてはプログラム全体としてPCSで相対的に評価されます。
町田さんは現役最後のシーズンに何度か「ジャンプは表現の一部」「プログラムの為にジャンプがある」といった発言をしていました。当時から、ジャンプは技術点のためだけに実施するのではなく、プログラムの芸術性を構成する一部である、と意識していたのでしょう。

また、PCSを芸術点としたものの、5大要素のうち「スケーティングスキル」は異質で芸術性は要求されていない、本来は「技術点」の対象であると指摘しています(p.125)。町田さんは採点批判やジャッジ非難はしませんが、採点方法にはこのあたりに不十分さを感じていそうです。

「技術点」「芸術点」は一般向けではなく、むしろ突き詰めて考えたからこその用語だったのだなぁと、個人的には2年以上のモヤモヤが晴れてよかったです。

でも何が技術点で何が芸術点か、ここまで気をつけて見ていないですよね。選手でさえ区別していないかもしれません。だからこその研究なわけですが、町田さんがもっと主張していかないと意識付けされないのではないかと思います。

それから、解説することについて。
第Ⅲ部第1章では、技術点は絶対評価にも相対評価にも対応できるが、芸術点は相対評価しかなく、いくら数値化してもその競技会の中での優劣評価でしかないと指摘されています。

「〇〇選手の演技の芸術点が〇点だった」との記述は、いったいその演技の芸術性の何を説明しているのだろうか。ここに芸術性を点数により評価することの限界がある。(p.133)

ただASの芸術点に限っては、芸術性の真価どころか何も実質を伴わない。そのような点数の蓄積を、果たして歴史と呼べるだろうか。(p.134)

だいぶ語気の強い問いかけです。
芸術表現を点数化すること、相対評価することを否定しているわけではないと思います。芸術的表現があるスポーツだと認めたなら、競技会である以上、そこを細分化して数値的に評価しないわけにはいかない。
ただし数値だけではASの芸術的表現すべては伝わらない、評価しきれない。
だからテレビで解説を務めたり、雑誌で独断で勝手な賞を贈ったりして、評価不足を補おうとしているんですよね。

町田さんは、単に経験者として、また収入だけのために解説の仕事をしているのではない。他の選手と比べて相対評価するのではなく、スケーターあるいはプログラムに対して個々に言語評価できる機会と捉えて、オファーを受けている。評価することへ責任や自負があって、仕事されているのだと思いました。

ここまででだいぶ長くなってしまいました。

リッポンの《牧神の午後》評釈については、それこそ本文を読んで映像を見てほしいのだろうと思うので、感想は何点かだけ。

フィギュア・ノーテーションについてですが、表5(pp.158-162)はステップのトレースだけでなく、任務動作か任意動作かの区別と、上半身の特徴的な動きについても一覧になっていて、いやはや労作です。Crossoverにおける任務と任意の違いやMergedにした意図など、演技映像を確認せずにいられませんでした。素人には截然と区別しがたいところです。

ニジンスキーの《牧神の午後》が「絵画的バレエ」と称されていることを踏まえての、リッポンのプログラムで象徴的な振付がロングサイドから二次元に配置されていることなど、空間を意識した解説は町田さんの知見あってこそで、面白かったです。深読みかもしれないことを「筆者の間読み性によって解釈された美質」(p.213)と自分で言ってるのも。町田さんなら振付師や実演者に直接コンタクトをとって意図を確認することもできそうですが、あえて客観的に解釈したかったのでしょうか。

引っかかったのは、p.183で「360度鑑賞に堪え得る」と書かれていること。町田さんは『アイスショーの世界4』のコラムからやたら「360度観照」という言葉を使っています。どうやら美術関係で「正面観照性」という言葉があるようなのですが、私としては「観照」は内面的な用語なのに、そこに360度や正面なんて具体的な語をつけて限定するのに違和感がありました。「観賞」もしくは「鑑賞」でいいのに。精神性をふくめ表現をダイレクトにとらえてほしくて「観照」の語を使ったのかなぁなんて考えてみたのですが、しっくりこなくて。なぜここでは「鑑賞」にしたのでしょうね。「観照」はp.211 に出てくるのですが、それも私の語釈とはズレがあります。
町田さんは「相貌」という語を、身体全体から発せられる気概やオーラのような意味を含めたものとして頻用されていますが、これも私は「顔かたち」という物理的な意味が先に浮かぶので受け入れがたいです。この言葉のきっかけは尼ケ崎彬『ダンス・クリティーク』だそうで、この本はとても面白く読んだのですが、そこに出てきた「相貌」の語に特別な意味は感じませんでした(笑)
観照」や「相貌」を町田さんが意識して使っていることは理解するのですが、既にある言葉を再定義されると違和感も出てしまいますね。「アーティスティックスポーツ」も英語との違いが難しいですが。一方、「任務動作」「任意動作」はオリジナルに定義した語で、持論が貫かれていてすばらしいと思います。

それにしてもクロース・リーディングは時間も労力も膨大にかかりますね。町田さんの解説は今まで生放送では行なわれておらず、録画放送で資料を用意して臨まれています。私はそのほうが向いていると思っているので生放送を望んだことはないのですが、分析をしてから解説を行いたいというポリシーを改めて感じました。

第Ⅲ部を読み終わってから動画投稿サイトでリッポンの《牧神の午後》の映像を見てみましたが、第一印象が「競技プロって速い!!」でした。
プログラムは初見ではないのですが、《牧神の午後》というと自分の中ではジョン・カリーの映画で観たゆったりしたイメージに置き換わっていたようです。
今季はアイスショーも試合も中止が続いているので、早くまたあの風を感じに行きたいと、なんだか切なくなってしまいました。

長くてしょうがないですが、読解のためのメモを残したいので、第Ⅳ部以降もまた書きます。

 

※2017年11月22日慶應義塾大学SFC オープンリサーチフォーラム2017 におけるスポンサーセッション「AI時代のアーティスティック・スポーツ:人間と人工知能による相互補完的なスポーツ採点の可能性」にて。スライドを使って話されていました。